仙台市太白区でどこに行っても治らない痛みにお悩みなら、医療法人社団爽秋会岡部医院と連携し、出張施術にも力を入れているおおさき鍼灸接骨院へ!

おおさき鍼灸・接骨院・整体院


プロフィール

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~1993年 愛知県立惟信高等学校卒業
1993年~1994年 名古屋グランパスエイト
1994年~1996年 ブランメル仙台
1998年~1999年 ブランメル仙台→ベガルタ仙台
2000年~2015年 医療法人社団爽秋会岡部医院
2015年7月 おおさき鍼灸・接骨院・整体院 開業
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院内、受付にて☆

◆小さい頃からデカかった!

患者さんから「先生って小さい頃から大きかったの?」と聞かれることがしばしばあります。その通りです!ものすごく大きい子供でした。幼稚園での全体集合写真でもすぐに見つかるほど、頭二つ分は大きかったですね。園服も一人だけ七分袖になっていました(笑)
もともと運動神経が良かったのと、身長差での有利がきいて、スポーツはとにかく得意でした。名古屋の小学校は、夏は野球、冬はサッカーをやるのが普通だったので、私も両方やっていたのですが、もし野球の方を選んでいたとしても根拠はありませんが(笑)プロ野球選手になっていたという自信はありますね!!


◆サッカーを選んだ経緯

なぜサッカーを選んだのかというと、私が進学した中学校がとにかく荒れていて、その代表格が野球部でしたので、こわい先輩と共に日々を過ごすのは嫌だなと思ったためです(笑)。上下関係の厳しい中でも野球部は別格でちょっと面倒…そんな理由で、消去法でサッカーにしました(笑)
本格的にキーパーになったのは中3の時です。高校進学の際は、私学のスポーツ推薦の話もありましたが、いろいろと考えがあって別の高校へ行きました。愛知県でもベスト30に入るかどうか、くらいの弱小チームでしたが、サッカーができればいいかな、という気持ちでした。

ある日、練習でケガをしてしまい病院に行く際、母親も腹痛のため一緒に行くことになった時のこと。母は薬をもらって終わりかな、と思っていたら、がんであることがわかりました。私が高校3年の夏です。母のがんは進行が早いものだったのに、そのことを父は私や兄弟には話すことなく、一人で抱えていたのです。私が知ったのはたまたまお見舞いに行ったその日、ある漫画のワンフレーズに『どんどん痩せていっている。この患者はがんではないか!?』といったシーンがあり、帰りの車中で親父に聞いたら「そうだ。でも誰にもいうなよ」と。でも、その日の晩に病院から電話がかかってきて、皆で駆け付けた時には・・・
私の高校卒業を待たずに他界してしまいました。


◆Jリーガーとしての最初の2年

私の笑いあり・涙ありの半生を振り返っています。お気楽にお読みください。
高校卒業後に名古屋グランパスエイトに入ってからの2年間は、輝かしい時間でした・・と言いたいところですが、その全く逆。社会人としてもサッカー人としても、非常に辛い2年間でした。これまで、いかに自分が「お山の大将」でやって来たかを思い知らされましたし、周りの評価も厳しく、心底凹む日が少なくなかったのです。でも、今も付き合いのあるほどいい先輩に出会えたのも、たくさん本を読んだのもあの2年間。思い返せば一番成長できた時間でした。まぁ、もう一度やれと言われたら・・・どうでしょ!?(苦笑)
また、この時期、小説から自己啓発やメンタルトレーニングまで、いろんな本を読みましたが、最後に一番自分にしっくり来たのは禅の教えでした。負けず嫌いの動物の集団のようなプロの世界の中で、しばしば私は「優しすぎた」と言われます。もしかしたらその言葉は当たっているのかもしれません。でも、あの時にたくさん読んだ本は、その後の仕事はもちろん、生き方そのものの基礎を作ったと思っています。


◆現役生活に幕

サッカー選手は、高卒でも2年で結果を出すことができなければ(よっぽどの選手でない限り)「解雇通知」をもらいます。私はそれを受け取りました。大学進学も考えましたが環境が難しく、サッカーを続ける選択をし、ブランメル仙台のセレクションを受け入団することができました。セレクションを受けたのが300名で、入ったのが私一人でしたから、少しだけ自信を取り戻すことができたわけです。
20歳そこそこにしてはお金もたくさんもらいましたし・・毎晩飲み歩いていた時もありました。ブランメル時代にケガをして、それでも飲み屋に行ってゴタゴタを起こし、また2年で解雇通知(ここ、どんだけ酒好きなのよ!とツッコむところです、笑)。
1年間フリーターとして内装工や飲食業に従事し、ブランメル仙台に再度入団という奇跡の復活!?を果たしました。(一年後、ベガルタ仙台にチーム名変更)。2年間選手生活を送り、その後ケガもあり引退です。
それまで縁のなかった仙台という土地には、そんな流れで来ることになったことと、この仙台という地が自分の水に合ったこと、そしれ何より良い時も悪い時も支えてくれる多くの友人ができたこともあり、この地に残る選択をしました。


◆人生のターニングポイント

そして、25歳でサッカーを引退後、第二の人生「治療家」になるまでのお話しです。
サッカーを辞め次の仕事をどうするかと考えたとき、私は人とお話する仕事が好きでしたので、また飲食業に戻ろうかと思っていました。そのことを医療法人社団爽秋会岡部医院 前理事長 岡部健先生にお話ししたところ「人との本当の繋がりは“介護”の現場にこそある。もしその気があればうちで働かないか」とお声をかけていただきました。私自身、母をがんで亡くしているので医療の仕事には想いもあり、岡部医院でホームヘルパーとしてお世話になることになりました。これが私の治療家への道、最初の一歩です。
ちなみに岡部先生とは、1度サッカーをクビになりフリーターをしていた時に知り合いました。クビになったのは岡部先生と出会うためだったんだ、と前向きに解釈しております。(ここも、つっこみどころですよ~笑)


◆ヘルパーから鍼灸の道へ

それまでサッカーしかやってこなかったので何が出来るわけでもなく、しばらくは病院中の掃除をして回る日々。慣れないことに毎日必死でしたが苦労と思ったことはありませんでした。1年程経ち次のステップを考え始めていた折、岡部先生から「緩和医療の分野で、代替医療として鍼灸の担い手は日本ではまだまだ少ないから、やればお前1番になれるぞ」とアドバイスをもらい、『ハイ、やります』と(笑)、鍼灸師になる決意をしました。
昼間はヘルパー、夜は鍼灸の専門学校へ。こう見えて学校では成績優秀者でしたよ。3年間で赤点はたったの1回!
その1回は持ち込みOKの科目で、後輩から借りたノートがまるで役に立たず…。ノートは自分でとらないといけませんね(笑)大変ではありましたが、個性的な同級生たちに囲まれて充実した学校生活でした。
こんな感じで学校を卒業し30歳の時、岡部医院で鍼灸師としてデビューすることになりました。


◆緩和ケアの担い手になって

治療家にデビューしたところまでお話ししました。その先11年、岡部医院で鍼灸師として勤めることになります。私の治療家人生を語る上で欠かせない「岡部病院」(正式名称:医療法人社団爽秋会岡部医院)は、末期がんの方を中心とした、最期の時を自宅で、自分らしく過ごしたい方を支えるための往診専門の診療所です。緩和ケアとは、患者さんの痛みのコントロールや、抗がん剤治療に伴う吐き気やむくみなどに対して、がん治療と平行して行う治療で、その中で代替医療としての役割があるのが「鍼灸」なのです。
ご自宅に帰ってきても抗がん剤治療の影響で手足の痺れが残る方や、手術の影響等でのむくみ、腹水など様々なお悩みがある中で多かったのは、どうしても横になっている時間が増えてくるため「腰痛」や「肩こり」のお悩みでした。お薬ではなかなか効果が出なかったり、お体の状態によってはお薬がもう増やせない方に鍼灸で積極的に緩和を図り、ケアに奔走する毎日でした。


◆施術への想い

「末期がんの患者さん」というと「みんな寝たきりや痛がったまま亡くなっていく」というつらいイメージがあるかもしれません。しかし実際は違います。多くの方はご自分の力で移動していますし、住みなれた我が家で愛する家族に囲まれながら人生の最期を送ろうと、穏やかで本当にいい時間を過ごしています。施術する上で、僕は「一鍼灸師の前に、一人間としてどう接するか」を常に考えていました。施術とは人と人の本当の付き合いであり、信頼関係が最も大切です。「がんだからこう」ではなく、「その人自身をちゃんと診て、施術していかなければいけない」と思いますし、今でもそれだけは絶対に忘れないようにしています。その想いは開業しても変わらず同じで、痛みの先にどんな悩みがあるのか、例えば「腰が痛くて仕事が出来ない」「子供が抱けない」など、患部の痛みだけを診るのではなく、そういう想いを施術で支え、サポートしていきたいと強く思っています。

◆修行時代

どの道でも“資格を取った、学校を出た”だけでは一人前にはなれません。むしろそこからがスタートですよね。鍼灸師も同じで、学校では学生同士や針枕というもので練習こそすれ、実際には臨床に出てから初めて人の体に触れます。
だからこそ資格を取ったあとも勉強会に出たり、お師匠さんのもとで勉強させてもらったりして修行を積みます。私の場合、平日は岡部医院で働き、休日は「経絡治療学会」でお世話になっている先生の元に通って修行をしました。大変ではありましたが、多くのことを学んだ楽しい時間でした。学校で「この疾患にはこういう風に」とは教わりますが、やはり字面だけで覚えるので臨床とは結びつきません。たくさんの経験を積んでいくことで、昔は分からなかったことが分かるようになってくる、非常に奥深い分野だと思います。
今でも教科書を読み返しますが、読み返すほどに新たな発見があるので、日々勉強が欠かせません。

 
◆独立のキッカケは・・・

私が岡部医院に勤めるようになって十数年、私を拾いかわいがってくれた岡部理事長のがんが発覚しました。岡部先生は「病院を巣立って、それぞれが地域で緩和ケアの種をまいてくれればいい」と常々おっしゃっていました。私はもともと40歳には独り立ちを、と考えてはいたので先生のご病気をキッカケに決心し、「在宅で培ったホスピタリティを生かして、住み慣れた土地でずっと元気に過ごしたいという思いの一端を支えたい」という熱い思いが生まれました。独立するならばよりよい技術をと思い、柔道整復師の資格をとって開業の運びとなりました。今は亡き岡部先生が「よし大﨑、もっと種を蒔け~!」と見ていてくださるといいなぁと思います。
なんだかちょっぴりしんみりさせてごめんなさい。私もたまにはしんみりモードに入るんですよ・・・


◆開業してからと今後の抱負

開業してから、ふと振り返ってみると怒涛のような日々でした。
慣れないことばかりできりきり舞いの中、皆様からいただく感謝の言葉や笑顔が、私の励みになっておりました。
そんなこんなでバタバタと日々が過ぎていき、まず思うのは「家族にはずっと迷惑をかけっぱなしだったなぁ」ということ。一緒に過ごす時間もそうですが、どこにも連れて行ってあげることができませんでした。
少しずつ気持ちにも余裕が生まれてきましたので、これからは家族との時間を大切にしたいです。
この場をかりて陰で支えてくれている家族感謝の気持ちを伝えさせてください。ありがとう~!

 そしてもう一つは「からだ作り」について。私自身も月二回身体のメンテナンスはしっかり行っているのですが、からだ作りに関しては少しサボりがちだったと反省しております。隣にフィットネスジムが出来て通うようにはなりましたが、真面目な会員には程遠く・・・。そして、フットサルにも全然行けませんでした。(お声をかけてくださった方、スミマセン)
若かりし頃までとはいいませんが、お腹を割ることが当面の目標です。現役時代は「仮面ライダーか大崎か」ってくらい見事なシックスパックの持ち主だったんですよ~!本当ですよ(笑)。
普段「メンテナンスと強いからだ作りがいかに大切か」をお話している私ですが、皆様にばかり偉そうに言っていないで、私自身も精一杯頑張ります!そしてあなたもさらなる高みを目指して、一緒に頑張っていきましょう!

 

◆大﨑常喜(42)のいろいろ
 

 

1974 (昭和49)518日生まれの、寅年・おうし座。 (名古屋出身、四人姉弟の長男)
名古屋で20年、仙台に来て22年。もぅ東北人です(笑)

 

☆よく聞かれること第1位!身長は193.4cmです。
 

☆体重は、開業時から12kgダウンで現在83kg。無理に減量したわけではありません。パフォーマンス向上のため、自然とお昼ごはんを食べなくなりました。痩せたことで腰痛などの不調が改善されたため、そのまま維持しております。
 

 ☆私・妻・娘(高2)・息子(高1)と愛犬ビビちゃん(ミニチュアダックス・5歳)の4人と1匹、ビビちゃんに振り回され日々楽しく過ごしております。
 

☆趣味:山登りと薪割り。自宅の薪ストーブ用に、義叔父の山から木をもらってきて、チェーンソーで豪快にカットしています(^O^)
山登りの師匠は岡部先生。以前はよく泊りがけで登りました。最近はご無沙汰なので、山好きの方ぜひお声かけください!
 

☆性格は超負けず嫌いで意外と短気(笑)

患者様からはよく「先生A型でしょう」といわれますが、実は典型的なB型です。お付き合いが長くなると、「唯我独尊モード」の私に会えるかも?
 

☆ウィークポイントは音痴なこと。我ながら渋くていい声だと思うのですが、歌を口ずさむと家族から「歌わないでお父さん」と叱られます()
基本的に自分大好き人間なので、生まれ変わってもまたこの自分の人生を歩みたいです(笑)

 

 


おおさき鍼灸・接骨院・整体院のご案内

住      所:

〒982-0014 仙台市太白区大野田4丁目6-1
リバーサイド三樹1号館102号

アクセス:

地下鉄富沢駅より徒歩8分
ザ・モール長町より南へ車で3分 (県道館腰線から直ぐ)

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